「松島や ああ松島や 松島や」で有名な日本三景の1つ松島

日本の伝統文化 宮城編です。松島(まつしま)とは、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。または、それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の1つに数えられている。

松島湾周囲の松島丘陵や島の高台には「松島四大観」(まつしましだいかん)と呼ばれる修景地点が散在している。江戸時代に舟山万年により命名された。

壮観:東松島市にある宮戸島の大高森からみる景色。標高105.8m。松島湾の東端から西方向を眺める形となり、奥松島の島々の他、遠く船形山(奥羽山脈)が一望出来る。夕陽で真っ赤に染まった松島の風景写真として度々用いられる。
麗観:松島町の富山にある大仰寺よりみる景色。標高116.8m。南方向に松島湾や奥松島を眺める。
幽観:松島町と利府町の境界部にある扇谷からみる景色。標高55.8m。東南方向に塩竈湾を眺める。
偉観:七ヶ浜町の代ヶ崎の多聞山からみる景色。標高55.6m。北方向に塩竈湾、さらに奥の松島湾、奥松島を眺める。

松島には大小の遊覧船が就航しており、船上より島々を眺めることができる。船上からカモメ(主にウミネコ)に餌やりをするのが名物になっている。

大型遊覧船の航路は、松島港発着で松島湾内や奥松島を巡るものが中心だが、塩釜港と松島港とを繋ぐ航路もある。

「松島や ああ松島や 松島や」
松尾芭蕉が『奥の細道』で松島を訪れた際に、あまりに絶景なので句が浮かばず、この句を詠んだという逸話があるが、この川柳は後世の狂歌師の田原坊の作で、芭蕉の作ではないとされる。
ただし、その場で句が思い浮かばなかったのは事実らしい。また別の説では、句は詠んだが景色に釣り合うよいものができなかったともいわれる。

鮭の身とイクラ(はらこ)を乗せた宮城県のはらこ飯

日本の伝統文化 宮城編です。はらこ飯(はらこめし)は、炊いたご飯の上に、鮭の身とイクラ(はらこ)を乗せたもの。仙台駅や盛岡駅など東北各地で駅弁としても売られている。

盛岡駅が東北新幹線の終着駅だった頃は、八戸・青森方面の特急はつかりに乗り継ぐ乗客に人気のあった駅弁でもあった(青森県は地域を問わず、鮭の切り身やイクラの消費量が多い)。
また、上野-青森間を走行していた急行十和田(のちに八甲田に替わる)が定期運行されていた時代は、下り列車(上野発)では後続の電車寝台特急に抜かれるのを待つため、朝の6時50分〜7時間に盛岡駅で停車時間を長めに取るダイヤになっており、多客時には朝ご飯として買い求める乗客で売り切れることもあった。

阿武隈川の河口付近にある亘理地方(亘理町荒浜)では、鮭の地引網漁が盛んであった。大漁の時に漁師が振舞ったのが、はらこ飯と言われている。
江戸時代に入り領主となった伊達政宗が阿武隈川修繕の視察に亘理地方を訪れた。このとき地元の漁師からはらこ飯が献上されたといわれている。

はらこ飯(サケの切り身を煮てのせる)
宮城県亘理郡亘理町に伝わる郷土料理としての「はらこ飯」は、鮭の煮汁でご飯を炊くため、ご飯の色は茶色である。
宮城県気仙沼周辺、岩手県、新潟県の「はらこ飯」は、普通に白米を炊いたご飯を用いることが多いため、ご飯の色は白色である。

その他(サケの刺身をのせる)
鮭を煮ることなしに、刺身のまま白いご飯の上にのせ、イクラを添えた場合は「鮭いくら丼」「サケ親子丼」などと呼ばれる。
ご飯が寿司飯の場合は、ちらし寿司の一種として様々な名称で呼ばれる。

より大きな音・派手な技を追求する高橋竹山以降の津軽三味線

日本の伝統文化 青森県編です。高橋竹山の著書によると、お祭りがあればその神社の境内にはずらりとボサマ(男性視覚障害者)達が並び、互いの腕を競い合うかのように三味線を演奏していた。
そんな環境の中、津軽三味線草創期の名人と呼ばれる人々は、他のボサマより目立つために、より大きな音・派手な技を追求するようになる。
三味線は、それまで瞽女と同じ中棹や細棹を用いていたものが太棹になり、撥は速弾きに適した小振りなものとなり、音楽もまた一部に「叩き」と呼ばれるパーカッシヴな奏法を用いた、複雑かつハイテンポなものに変化していった。竹山自身、「三味線なんて音が大きく出ればそれで良かった。音が大きいから太棹を選んだんだ」と語っている。

昭和40年代の民謡ブームで一世を風靡、それまで単に「津軽もの」などと呼ばれていたこの三味線音楽を、三橋美智也らが「津軽三味線」と称して、以後定着をみる。
本来は単なる伴奏楽器として、観客に見えぬよう舞台袖で演奏するものだったが、時代が下るにつれ、三味線のみで演奏する前奏部分(前弾き)が独奏として独立してゆく。
現代では独奏楽器としての側面が強調され、吉田兄弟、木乃下真市(木下伸市)、上妻宏光らの若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立している。
しかし、津軽三味線の特徴のひとつである、即興での伴奏(唄づけ)が出来ない奏者も多くなってきており、これを憂う声も多く聞かれる。

男性視覚障害者の門付け芸として長く蔑まれていた 津軽三味線

日本の伝統文化 青森県編です。津軽三味線(つがるしゃみせん(一般にはつがるじゃみせんと発音されることが多い))は、津軽地方(現在の青森県西部)で誕生した三味線。本来は津軽地方の民謡伴奏に用いられるが、現代においては特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合が多い。撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴がある。


弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後構造的に変化しながら、インドを経て中国に入り、中国南部において「三絃」が成立。この「三絃」が沖縄を経て畿内に持ち込まれ(異説あり)、江戸時代中期に日本独特の三味線となった。
以降、三味線は日本各地の土着芸能と融合して様々に発達し、当時日本最北端であった津軽地方において津軽三味線となる。

津軽三味線の楽曲の原型は、新潟地方の瞽女(ごぜ)の三味線と言われる。その他、北前船によって日本海側各地の音楽が津軽に伝わり、津軽民謡は独特の発達をみる。
しかし、津軽地方においてはボサマと言われる男性視覚障害者の門付け芸として長く蔑まれていた。
そのためもあり、津軽三味線の起源をたどることができる文献はごく僅かで、歴史に関してはおおむね口伝に依る。ただし、津軽三味線の歴史が浅いため、現在でも、古老の三味線奏者から、あくまで主観的なものではあれ、津軽三味線の起源について聞くこともできる。

幻想的な雰囲気に包まれる 弘前城雪燈籠まつり

日本の伝統文化 青森県編です。1977年(昭和52年)から始まった弘前城雪燈籠まつりは、青森県弘前市で開催される弘前四大まつりのひとつである冬祭りです。青森の津軽三味線ライブも同時に行われますので、青森県の伝統文化を一緒に楽しむことも出来ます。

弘前市により所有・管理されている弘前公園で開催され、「みちのく五大雪まつり」の一つである。園内は幻想的な雰囲気に包まれる。

毎年2月中旬に開催。園内には約150基のねぷた絵をはめ込んだ雪燈籠や、約300基のミニカマクラが並ぶ。雪燈籠は企業・学校などの団体や市民の手によって作られている。

また、メイン会場の四の丸には陸上自衛隊弘前駐屯地による歴史的建築物などの大雪像や大型滑り台などが作られ、ステージではさまざまなイベントが開かれる。夜間特別照明は16時30分頃から21時まで。

雪燈籠やミニカマクラにろうそくがともり、弘前城天守閣などもライトアップされる。かつては氷像の展示もあった。また、12月から2月末までは弘前エレクトリカルファンタジーが開催されており、園内周辺の街路樹のイルミネーションや追手門広場などの洋館・文化財のライトアップが行われる。

雪燈籠は、長くて辛い北国の冬を楽しく演出しようと市民手作りで行われます。

武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く 弘前ねぷた

日本の伝統文化 青森県編です。弘前ねぷたは、青森県弘前市で開催される弘前四大まつりのひとつである夏祭り。

大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。 扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)をあわせると約80台ものねぷたが運行される。
1980年(昭和55年)には国の重要無形民俗文化財に指定された。

ねぷたまつりの由来はさまざまあるが、定説としては江戸時代元禄期の後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆灯籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷた発展してきた。
語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛。(表記は佞武多、禰ふたと様々ある) 「眠り流し」は日本各地で行われている。農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払うための行事として、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ。

例年8月1日から7日にかけて行われる。最終日7日(午前運行)のことを「なぬか日」と呼ぶ。
企業主催のねぷたは少なく、町会・集落単位でのねぷたが多かったが、近年は任意に仲間たちが集まって参加しているグループねぷたが増加傾向にある。それゆえここ10年で10数団体増えており、2008年は81団体の参加となった。

青森ねぶたとの違い
弘前のねぷたが「neputa」であるのに対し、青森のねぶたは、「nebuta」と発音が違うが、これは1980年(昭和55年)の国の重要無形民俗文化財に指定されてから。

形状としては、弘前は扇型が主体で、青森は人形の灯籠となるが、弘前のねぷたでも人形(組ねぷた)のものが相当数の割合で見られる。また、弘前の組ねぷたの場合、見送り絵と開きの部分がある。かつては弘前も組ねぷたが多かった。

2億円以上の費用をかけて行われる 青森ねぶた祭り

日本の伝統文化 青森県編です。青森ねぶた、または青森ねぶた祭とは青森県青森市で8月2〜7日に開催される夏祭りであり、毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。 1980年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。
このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された。
しかし田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

毎年8月2〜7日まで開催される。このうち8月2〜6日が夜間運行である。7日は昼間運行であるが、夜に海上運行と花火大会が催される。また、8月1日には前夜祭が行われる。開催にかかる費用は、約2億2千万円。

青森のねぶたには大型ねぶた、子供ねぶた、地域ねぶたがある。子供ねぶた、地域ねぶたは主に町内会が主流となって運行するねぶたであり大きさも普通の大型ねぶたより一回り小さい。子供ねぶたは8月2・3日の2日間運行される。大型ねぶたは開催期中必ず運行されるが、奨励金の関係か2日と3日は大型ねぶたの運行台数が少ない。

貧血防止に大いに役立つことが立証されている南部鉄器

日本の伝統文化 岩手県編です。ぶんぶく茶釜を思い起こさせられる岩手県の南部鉄器ですが、その歴史は17世紀の初め、時の盛岡藩主南部利直が盛岡城築城の折、京都から釜師を召し抱え、茶の湯釜を作らせたのが始まりといわれ、また、水沢の鋳物は、平安時代末期、藤原清衡が近江国から鋳物職人を招き、武具や仏具を作らせたのが始まりといわれている。

南部鉄器の主たる原料は鋳物用銑鉄で、その他漆が使用されております。特徴は“質実剛健”“丈夫で長持ち”これが南部鉄器のイメージです。

また、鉄瓶の錆びを防ぐため「金気止め」は、摂氏900度の炭火の中に30分位鉄瓶を入れて焼く、南部鉄瓶独特の技術です。鉄瓶で沸かしたお湯や鉄鍋で調理した料理には鉄分が多く溶出しており、貧血防止に大いに役立つことが立証されています。

南部鉄器は第二次大戦中に製造が禁止されたために、150人いたといわれる南部鉄器職人が16人にまで減少してしまいました。

戦後はアルミニウム製品の台頭で、南部鉄器の需要が激減して衰退の一途をたどっていたのです。最近になって現状を打破し伝統文化を守ろうという動きも出てきています。

従来のデザインではありませんが柳宗理の南部鉄を使った調理器具が製作されています。

鬼の退散に喜んだ人たちによって踊られたという盛岡さんさ踊り

日本の伝統文化 岩手県編です。盛岡さんさ踊りは、岩手県盛岡市にて毎年8月1日から3日にかけて行われる祭りである。近年は毎年8月1日から4日までの開催期間が続いている。県は東北五大祭りの1つとしてPRしている。8月上旬に東北各地で行われる夏祭りのトップを切って開催される。

藩政時代から盛岡市近郊各地で行われていた伝統的な様々な「さんさ踊り」を統合、観光イベント化して1978年から開催を継続しているのが現在の「盛岡さんさ踊り」である。

藩政時代から受け継がれてきたさんさ踊りの起源は、三ツ石伝説に由来しています。その昔、南部盛岡城下に羅刹鬼(らせつき)という鬼が現れ、悪さをしてあばれておりました。困り果てた里人たちは、三ツ石神社に悪鬼の退治を祈願しました。

神様はその願いを聞き入れて悪鬼たちをとらえ、二度と悪さをしないよう誓いの証として境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させました(これが岩手の名の由来だと言われています)。
鬼の退散を喜んだ人たちは、三ツ石のまわりをさんささんさと踊り回ったのが「さんさ踊り」の始まりだと言われています。

以前は、盛岡八幡宮から岩手公園にかけてパレードを行っていた(肴町を中心に)が、その後、盛岡市役所前の中央通りを利用した観光商業的な今の形になったという説がある。

勇壮さで知られる東北の祭りの中においては歴史が浅いため、開始当初は比較的に知名度が低く、開催者や地元マスコミなどがPRに努めた結果「東北五大夏祭り」の一つと呼ばれるまでになった。

2007年のNHK朝の連続テレビ小説『どんど晴れ』では地元の協力で「盛岡さんさ踊り」が再現され、劇中エピソードの舞台として描かれた。2007年6月には世界一の和太鼓の数の祭りとしてギネス世界記録に登録された。

4日間開催になっているここ数年は、4日目に参加団体のほとんどが一斉に繰り出す「大輪踊り」が行われる。そして、全体の自由参加輪踊りにてフィナーレを迎える。

伝統の技術を守っていくことこそが発展の道と確信している岩谷堂箪笥

日本の伝統文化 岩手県編です。岩谷堂箪笥(いわやどうたんす)は、岩手県奥州市で作られる木工品。1982年には伝統工芸品に指定された。

岩谷堂家具の起源は平泉が栄えていた頃の康和年間(1099年から1103年)、藤原清衡が平泉に居を移すまでの約30年間、江刺郡豊田館を本拠地とし、産業奨励に力を注いだ時代にさかのぼると伝えられている。当時は現在のような箪笥ではなく、長持のような大型の箱のようなものだったと考えられています。

江戸時代の中期天明時代(1780年代)に岩谷堂城主、岩城村将が米だけに頼る経済から脱皮しようと、家臣の三品茂左右衛門に、箪笥の製作、塗装の研究、車付きの箪笥を作らせました。

文政年間(1820年代前後)には、徳兵衛という鍛冶職人が彫金金具を考案しました。鍵のかかる堅牢な金具が用いられるのは、金庫の役目を果たすためでした。最初は桐の模様が多かったようですが、次第に虎に竹、龍、花鳥など多くのデザインが開発されました。これが原型となり、岩谷堂箪笥の技術が現代に引き継がれているのです。

岩谷堂箪笥は、初め20戸位の業者が個々に製作していましたが、戦争で一時中断したあと、昭和27年に協同組合が生まれ、30年頃は、月産200本まで復活しました。が、その後岩谷堂箪笥生産は洋風家具に押され低迷し、36年に組合は解散しました。

しかし時代に流されることなく、伝統の技術を守っていくことこそが発展の道と確信し、苦しい時代を乗り切りました。昭和40年代初めに東京のデパートでの展示会を契機として、首都圏を中心とする都市生活者の需要を開拓しました。そして再び伝統家具のよさが見直され始め、42年に三品栄氏が中心となり岩谷堂タンス生産組合が組織され、江刺市の6業者が結束して生産を続け、51年4月には盛岡の2業者も参加し、岩谷堂箪笥生産協同組合を結成しました。

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