より大きな音・派手な技を追求する高橋竹山以降の津軽三味線

日本の伝統文化 青森県編です。高橋竹山の著書によると、お祭りがあればその神社の境内にはずらりとボサマ(男性視覚障害者)達が並び、互いの腕を競い合うかのように三味線を演奏していた。
そんな環境の中、津軽三味線草創期の名人と呼ばれる人々は、他のボサマより目立つために、より大きな音・派手な技を追求するようになる。
三味線は、それまで瞽女と同じ中棹や細棹を用いていたものが太棹になり、撥は速弾きに適した小振りなものとなり、音楽もまた一部に「叩き」と呼ばれるパーカッシヴな奏法を用いた、複雑かつハイテンポなものに変化していった。竹山自身、「三味線なんて音が大きく出ればそれで良かった。音が大きいから太棹を選んだんだ」と語っている。

昭和40年代の民謡ブームで一世を風靡、それまで単に「津軽もの」などと呼ばれていたこの三味線音楽を、三橋美智也らが「津軽三味線」と称して、以後定着をみる。
本来は単なる伴奏楽器として、観客に見えぬよう舞台袖で演奏するものだったが、時代が下るにつれ、三味線のみで演奏する前奏部分(前弾き)が独奏として独立してゆく。
現代では独奏楽器としての側面が強調され、吉田兄弟、木乃下真市(木下伸市)、上妻宏光らの若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立している。
しかし、津軽三味線の特徴のひとつである、即興での伴奏(唄づけ)が出来ない奏者も多くなってきており、これを憂う声も多く聞かれる。

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