貧血防止に大いに役立つことが立証されている南部鉄器

日本の伝統文化 岩手県編です。ぶんぶく茶釜を思い起こさせられる岩手県の南部鉄器ですが、その歴史は17世紀の初め、時の盛岡藩主南部利直が盛岡城築城の折、京都から釜師を召し抱え、茶の湯釜を作らせたのが始まりといわれ、また、水沢の鋳物は、平安時代末期、藤原清衡が近江国から鋳物職人を招き、武具や仏具を作らせたのが始まりといわれている。

南部鉄器の主たる原料は鋳物用銑鉄で、その他漆が使用されております。特徴は“質実剛健”“丈夫で長持ち”これが南部鉄器のイメージです。

また、鉄瓶の錆びを防ぐため「金気止め」は、摂氏900度の炭火の中に30分位鉄瓶を入れて焼く、南部鉄瓶独特の技術です。鉄瓶で沸かしたお湯や鉄鍋で調理した料理には鉄分が多く溶出しており、貧血防止に大いに役立つことが立証されています。

南部鉄器は第二次大戦中に製造が禁止されたために、150人いたといわれる南部鉄器職人が16人にまで減少してしまいました。

戦後はアルミニウム製品の台頭で、南部鉄器の需要が激減して衰退の一途をたどっていたのです。最近になって現状を打破し伝統文化を守ろうという動きも出てきています。

従来のデザインではありませんが柳宗理の南部鉄を使った調理器具が製作されています。

鬼の退散に喜んだ人たちによって踊られたという盛岡さんさ踊り

日本の伝統文化 岩手県編です。盛岡さんさ踊りは、岩手県盛岡市にて毎年8月1日から3日にかけて行われる祭りである。近年は毎年8月1日から4日までの開催期間が続いている。県は東北五大祭りの1つとしてPRしている。8月上旬に東北各地で行われる夏祭りのトップを切って開催される。

藩政時代から盛岡市近郊各地で行われていた伝統的な様々な「さんさ踊り」を統合、観光イベント化して1978年から開催を継続しているのが現在の「盛岡さんさ踊り」である。

藩政時代から受け継がれてきたさんさ踊りの起源は、三ツ石伝説に由来しています。その昔、南部盛岡城下に羅刹鬼(らせつき)という鬼が現れ、悪さをしてあばれておりました。困り果てた里人たちは、三ツ石神社に悪鬼の退治を祈願しました。

神様はその願いを聞き入れて悪鬼たちをとらえ、二度と悪さをしないよう誓いの証として境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させました(これが岩手の名の由来だと言われています)。
鬼の退散を喜んだ人たちは、三ツ石のまわりをさんささんさと踊り回ったのが「さんさ踊り」の始まりだと言われています。

以前は、盛岡八幡宮から岩手公園にかけてパレードを行っていた(肴町を中心に)が、その後、盛岡市役所前の中央通りを利用した観光商業的な今の形になったという説がある。

勇壮さで知られる東北の祭りの中においては歴史が浅いため、開始当初は比較的に知名度が低く、開催者や地元マスコミなどがPRに努めた結果「東北五大夏祭り」の一つと呼ばれるまでになった。

2007年のNHK朝の連続テレビ小説『どんど晴れ』では地元の協力で「盛岡さんさ踊り」が再現され、劇中エピソードの舞台として描かれた。2007年6月には世界一の和太鼓の数の祭りとしてギネス世界記録に登録された。

4日間開催になっているここ数年は、4日目に参加団体のほとんどが一斉に繰り出す「大輪踊り」が行われる。そして、全体の自由参加輪踊りにてフィナーレを迎える。

伝統の技術を守っていくことこそが発展の道と確信している岩谷堂箪笥

日本の伝統文化 岩手県編です。岩谷堂箪笥(いわやどうたんす)は、岩手県奥州市で作られる木工品。1982年には伝統工芸品に指定された。

岩谷堂家具の起源は平泉が栄えていた頃の康和年間(1099年から1103年)、藤原清衡が平泉に居を移すまでの約30年間、江刺郡豊田館を本拠地とし、産業奨励に力を注いだ時代にさかのぼると伝えられている。当時は現在のような箪笥ではなく、長持のような大型の箱のようなものだったと考えられています。

江戸時代の中期天明時代(1780年代)に岩谷堂城主、岩城村将が米だけに頼る経済から脱皮しようと、家臣の三品茂左右衛門に、箪笥の製作、塗装の研究、車付きの箪笥を作らせました。

文政年間(1820年代前後)には、徳兵衛という鍛冶職人が彫金金具を考案しました。鍵のかかる堅牢な金具が用いられるのは、金庫の役目を果たすためでした。最初は桐の模様が多かったようですが、次第に虎に竹、龍、花鳥など多くのデザインが開発されました。これが原型となり、岩谷堂箪笥の技術が現代に引き継がれているのです。

岩谷堂箪笥は、初め20戸位の業者が個々に製作していましたが、戦争で一時中断したあと、昭和27年に協同組合が生まれ、30年頃は、月産200本まで復活しました。が、その後岩谷堂箪笥生産は洋風家具に押され低迷し、36年に組合は解散しました。

しかし時代に流されることなく、伝統の技術を守っていくことこそが発展の道と確信し、苦しい時代を乗り切りました。昭和40年代初めに東京のデパートでの展示会を契機として、首都圏を中心とする都市生活者の需要を開拓しました。そして再び伝統家具のよさが見直され始め、42年に三品栄氏が中心となり岩谷堂タンス生産組合が組織され、江刺市の6業者が結束して生産を続け、51年4月には盛岡の2業者も参加し、岩谷堂箪笥生産協同組合を結成しました。

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