領民と偕(とも)に楽しむ場として造られた世界第2位の広さをもつ偕楽園

日本の伝統文化 茨城県編です。茨城県には岡山県の後楽園、石川県の兼六園と並んで日本三名園に数えられる偕楽園があります。あまり知られていませんが偕楽園の面積はニューヨークのセントラルパークに次いで世界2位の広さです。

偕楽園は1841年(天保12年)に着工して翌年に開園しています。領民と偕(とも)に楽しむ場として名づけられているのです。

偕楽園では梅林や梅が有名ですが、領民に梅を楽しんでもらうだけの目的ではなく、飢餓と軍用に備えるために植えられた言われています。

偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれている。表門から園内に入り、「一の木戸」と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。

好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑「偕楽園記の碑」があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。

茨城県の郷土料理として有名な水戸納豆

日本の伝統文化 茨城県編です。茨城県といえば郷土料理として水戸納豆が有名ですが、納豆の歴史の上から考えますと全国各地で作られ食卓に乗せられていました。

平安時代には納豆という言葉が使われていたようで、江戸時代には京都や江戸では毎朝「納豆売り」が「なっとう〜、なっとう〜」といって売り歩いていたのです。

戦争中は軍用食として、戦後は栄養補給の意味からよく食べられて普及していったのです。

これでは水戸が特別に納豆の歴史があるということにはなりませんが、当然水戸でも納豆が作られていて、1083年に源義家が奥州に向かう途中で水戸で宿泊をしたときに馬の飼料である煮豆の残りから納豆ができたという伝承が残されています。

実は「水戸納豆」というのは茨城県の納豆を指すのではなく、納豆のブランド名なのです。茨城県水戸市の轄沼五郎商店が伝統的な納豆の家内工業から近代的な食品工業として製法を確立して、近代的なマーケティングを行い明治から昭和初期にかけて全国区のブランドにしたのです。。

轄沼五郎商店は1889年(明治22年)に「天狗納豆」のブランドで創業し、現在も納豆の製造販売を行っています。

水戸納豆よりも天狗納豆の方がもっと有名になってもよかったようにも思われますが、茨城県以外の人には水戸納豆の方が理解しやすかったのでしょうかね。

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